宇宙の中の心と物質

唯物論と唯心論などと難しく考えることなく、物質が主であるか、精神が主であるかと言うことに付いて。

精神と言うと、何か精神論の話しのようですが、物質界を人の側面から考えると、常にどんな物質もお金も、心を通して感じる事に成ります。
そうです、世の中を観察することは、心のフィルターを通してからしか出来ませんし、思考そのものも、心が作用する現象です。

その意味で、この世の中の全ては、人から見れば、心によって、人にとってのその形態が存在している事にもなります。

宇宙の姿

量子力学が観察することにより、観察される対象は影響されると言う結論を導き出しています。
見る事により、見られているものは変化するのです。さらに観察するまで、何の結論も出ていないとされます。
壷の中のサイコロは人が見るまで、丁でもない半でもない状態に置かれていると言うのが量子力学の考え方です。人が(心が)見るまで決まった状態はなく、見る事により、物質はそれに影響されることになります。

この世界はフラクタルで出来ています。
波も風も株価の動きも共通の波動と繰り返し構造になっています。マクロ宇宙では恒星と惑星と衛星の構造。それは星雲の枠組みまでフラクタルです。
ミクロ宇宙では原子の構造、電子の関係そして、陽子内部の構造まで同じフラクタルです。なぜか共通の法則が支配しています。

さて、目に見えるものが全てではないという事は、誰にでもわかるでしょう。
これは現代では明らかです。電気や電磁波は目に見えません。しかし、当然にその不可思議な?現象は存在していて、作用しています。重力や磁力もそうです。その他にも無数に存在しています。世の中の存在は目に見えないものの方が、実は当たり前のように多数なのです。

ところが人の心の感じ方は、五感によって左右されます。ですから通常の人の感覚や常識は本来の宇宙の法則を誤解するようにできています。
現代では電気の存在を否定するする人は少ないでしょうが、知識が無ければ迷信の部類です。
重力ですら、ニュートンが万有引力の法則を唱えるまで、重力という力があることすらわかりませんでした。単に物が下に落ちるということは、そうだということだけだったのです。その力の作用が無ければ浮んでいると言うことは、あり得ない考えだったのです。地球が太陽の周りを廻っている考えのようにです。

実は重力があっても、人は宙に浮んでいられます。エネルギーの存在です。
飛行機で浮ぶことは出来ますが、ベランダにいても浮んでいます。当たり前でしょうか。
物質の内面はガラガラ、スカスカの存在です。太陽系がスカスカの存在であるように、原子の内部もスカスカの存在です。足元のコンクリートも、空気と大差ないガラガラのものです。浮かんでいられるのは、原子の運動エネルギーが重力に打ち勝っているのです。
このように人が見ているものや常識は、本来の宇宙の法則からはかけ離れたものです。

人に取って比較的に常識的なのは、ニュートン力学まででした。
しかし、ニュートン力学が世の中の全てを解明したかに見えたのもつかの間、あっけなく崩壊してしまいました。相対性理論が替わって世の仕組みを明らかにしましたが、これもいくつかの矛盾で崩壊するのも間近なのかも知れません。
まだまだ、世の中の仕組みで分かっているのは、ほんの氷山の一角なのです。

ところで物理学者の中には、神の存在を肯定する人が非常に多いという事実があります。そうなっているのは分かるけど、何かの意志がそうしたとしか思えないこと、なぜそうなっているのか、まったく分からないことが多いのです。
分かり易い、身近な例えでは、水です。
水が無ければ生命は生きていけません。それは水が多くの物を溶かしこみ、体内で運搬することが出来るからです。しかし、それだけでなく、比熱が巨大でそのために地球や体内の熱環境が保たれています。更に4度で比重が最大になる為、海や池は上から凍っていきます。通常の物質のように低い温度が重くて下から凍れば、水生生物は死んでしまいます。他にも多くの例がありますが、水の性質が少しでも違っていたら生命は存在しません。
この宇宙には、この例えのようなことに類する絶妙な法則が多いのです。

心の姿

心は大脳生理学の分野に過ぎないのでしょうか。
ここでもニュートン力学が崩壊したようなことが起っています。解明できたかに思えましたが、やはり分からないのです。そもそも脳が存在しない植物がGSR(皮膚電気反射、うそ発見器)に反応して、意志を示すのです。心理学の分野ではマイナーですが、植物心理学が存在します。
単なる生理学の分野だとすれば、脳がほとんど活動出来ない状態で、臨死体験があることも説明出来ません。進化の過程でその現象を起す事を獲得した必然性も無いのです。また、文化や文明が違っても同じような内容の体験をする事も不思議です。

なぜ人が死ぬと、その瞬間にコンスタントに五十数グラム体重が増加するのでしょうか。それまでその浮力を与えていたものは、重力に対抗していたのですから、エネルギーです。なぜ霊魂の存在は文化や文明を超え、世界と没交渉の未開部族でも同じように語られるのでしょうか。虫の知らせはかなりの人が体験する普遍的な現象なのはなぜでしょう。
ユングの夢実験が有名ですが、0.3%の率で確率的にどうしても否定出来ない予知夢が出現するのはなぜでしょう(心理学の文献)。オーラはすでに日常語にもなっているほど、実際にも見る事が出来る人が多く、電気技士の作ったキルリアン写真機で実際に写るのは、それは一体なんなのでしょう。ある程度の気功師が当たり前に「気」で人を投げ飛ばせるのはなぜでしょう。

プラシーボ効果(治る薬だと信じればうどん粉でも治ってしまう)は、なぜ頻繁に発生するのでしょうか。自己治癒力が活性化すると仮定して、心の動きで物理的生理的な身体の変化が起っているのは確かです。新薬の実験では、プラシーボの補正(二重盲険法)を入れるのは常識です。
実はおかしな事なのです。科学の実験が科学的に完全に説明できない事を前提としなければ、成立しないのです。

その人間の系(システム)の中だけだから存在するのでしょうか。ところが人間と言うのは科学的にも閉じた系ではありません。同じような事は違う人間との間、生物相互の間に作用します。心(又は心が感じたもの)が明らかに作用しているのです。

本来の宇宙の法則は、何か奥底にまったく違った仮説が成り立つものかも知れません。それは神秘主義者の考えるものとも、まったく違うものなのかも知れません。

では、心はいわゆる、実体としての物なのでしょうか。
それを考える場合に、海の波は物なのでしょうか。海の海水が物質であり、波は現象であり、状態です。もちろん現象として存在するもので、色々な物質に影響を与えます。心も現象です。

物質の姿

ところで、物質の中身を見て見ると、不思議な事がわかります。原子の構成はまったく同じもので作られています。ただその数が変るだけで物質の種類が変ります。これが量子の語源です。
端的に言うと、電子の数で違った物になります。では、電子は物なのでしょうか。電子は状態です。波に当るものです。
波動そのものが電子で、状態に過ぎないと言うのが、量子力学の結論です。
電磁波の一種である光に付いて、光は波であり、粒子であると言う解説を読まれた方もおられるでしょう。
素粒子で出来た原子核の内部も、突き詰めていけば、状態になります。では、状態である海の波の、その物に相当する海の水はあるのでしょうか。無いのです。何も無いのです。すなわち状態だけで作られているのが原子で物質で宇宙なのです。

この世の中には確固とした物というものは何も存在せず、状態だけがあります。状態があっても海の波を作っている水に相当する物というものがありません。
まるで概念の世界のようです。
宗教家なら神の思念の中だけで宇宙の全てが作られているとでも表現するのでしょうか。普通の人が考える世の中やこの世とまったく違った世界が現実です。確固たる法則は存在しませんし(又は見えない世界にのみ存在する)、計算も出来ません。確率が計算できるのみです。全ては波動であって、それらに区別はありません。

究極のオカルトの世界です。あると思っているものは幽霊のような存在です。有るのは状態だけで、状態が実体です。状態のあるもの、それが実在物なのです。状態である心が実在する実体物でもあるのも当然の事で、物質と同じものとも言えるかも知れません。

宇宙という存在

物質の究極は何かと言うと状態、波動、すなわちエネルギーです。物質という物は、実は存在していないことにもなります。エネルギーは究極で永遠の存在で、この世界を形作っているそのもので、宇宙そのものです。
心と言う存在は存在するとするかぎり、何らかの形でエネルギーの関与する物です。Je pence, donc je suis.(我思う、故に我在り)は、別の意味で言えば、思うことにより、存在を既定しているとも言えるわけです。

起っている状態、現象、物質、全て状態です。唯物論も唯心論も実は意味のない話しなのかも知れません。何か一つの現象。波動。エネルギー。霊。神。どう名付けてもいいのですが、現象、状態が世の中の、宇宙の唯一の存在です。

現在では原子核内部のみを量子力学が担当して、外部は暫定的に近代物理学が担当していますが、やがては根底から物理学を覆すものです。その考え方の哲学的な側面を量子論と言います。
非科学的であるけど、しかし、人々のかなりの部分が当然のように想定している運、念、言霊、などなどが科学的に矛盾無く成立する根拠が明かされる事にも成るのかも知れません。

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